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2007.06/24(Sun)

島津義弘の賭け

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著者のプロフィーールを見ると、東京大学史料編纂所教授とある。
古文書を読み解く第一人者ということだ。
どれだけお堅い本かと思いきや、平易な文章で書かれていて、とても読みやすかった。
古文書を知り尽くしている人だから、素人にもわかりやすく解説できるのだろう。
それと、山本先生が島津義弘という武将が好きなのだと思う。
古文書を客観的に解読した本とは違った趣がある。
一見、小説とも思えるような文章になっている。

著者いわく、多くの大名家には、史料があまり残っていないが
島津家には、信頼性の高い史料が豊富に存在する。
このため、他の大名家では明らかにしがたい複雑な内部事情がわかるということらしい。

長兄で島津家16代目当主・島津義久と、その弟である義弘。
義久が「伝統」を重んじ、豊臣政権から距離をおこうとするのに対し
義弘は豊臣政権に服属し、島津家を発展させようとする。
やんちゃな次男坊という感じかな(笑)。

義弘と言えば、慶長の役における泗川での戦いぶりと関が原の敵中突破が有名だ。
しかし、この活躍の裏には、お家事情による義弘の苦悩があった。
朝鮮出兵に積極的ではない義久。島津の実権は、この兄が握っているので
国元から兵を動員できない。
朝鮮侵略の開始時、義弘は日本軍の第四軍に属したが
朝鮮に渡る軍船が、国元を出発するときから、一艘も来なかったのだ。
しかたなく賃船を借りて、共を5、6人つれて渡航した。
国元の妻への手紙に「恥ずかしい」と愚痴をこぼしている(笑)。

豊臣政権に上洛を命じられた時も、旅費を借金しての惨めな道中だったらしい。
義弘は、ことあるごと妻に手紙を出している。書かれている弱音を見ると
戦国武将も血の通った人間だったのだと感じる。

関が原の合戦、義弘の兵力は、たったの200人(笑)。
いくらなんでも、これじゃあ、戦が出来ないということで
国元から義勇兵を集い、なんとか1000人を集めた(これでも少ないけど)
関が原での島津軍は、島津家あげての軍勢でなはく、義弘をしたう義勇兵だった。
だから、敵中突破を成し遂げられたんだろうな。


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12:38  |  歴史  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2007.06/17(Sun)

馬糞伝説

大河ドラマの感想です。今回はちょっと立腹しました!なぜかと言うと

勘助が蘆毛馬の糞を飲んで、鉄砲傷を治した・・・ですっと!!!
「糞問題」には、ちょいとウルサイ私。黙って見過ごすわけには・・・・笑
以前にも触れたことですが、馬糞を飲んで鉄砲傷を治したのは
米倉丹後惣領の子彦次郎
「甲陽軍鑑」品第三十二に書かれています。勘助が飲んだという記述はありません。

馬糞パワーを世に広めたとも言える尊い話なのに、飲んだ人間を正しく伝えないとは!
思うに、脚本家も「甲陽軍鑑」の馬糞話を読んで感動し(?)
勘助が飲んだこととして、紹介したかったのでしょう。気持ちもわかる・・・(・ω・`)ふむふむ・・・

誰が馬糞を飲んだかなんて、どうでもいいじゃないかと思うかもしれないけど
武田&糞話に、こだわる私としては、文句のひとつも言いたくなったわけで

さて、気持ちを切り替え、感想のつづき~(笑)。
タイトルが「越後の龍」とあるから、謙信を楽しみにしてたけど
ほんの少し登場しただけでした。
気になっていた年齢は17歳。黒滝城を攻めていたので、やはり相手は黒田秀忠(笑)。
ガクトさんの声が、いつもより高かったような気がします。17歳っぽく演じてたのでしょう。
そして、炎の中から現れましたね。このシーンに笑ってしまいました。
というのは、昨夜読んでた上杉本の中に、謙信の逸話も載っています。
謙信は火の中に入っても焼けなかったそうな
すんごい特異体質だな!と驚愕しながら眠りにつきました。
で、今日のドラマを見ると、確かに火なんてへっちゃらな様子・・・マジっ?!
亡くなったとき、火葬出来なかったのかな?(笑)

今日の放送から、真田幸隆が武田に仕えることになりました。うれし~い。
真田の家紋「六連銭」を、お財布につけているのですよー(≧▽≦)
幸隆万歳!!!

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20:35  |  大河ドラマ風林火山  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2007.06/16(Sat)

謙信の父・長尾為景

先週の大河ドラマの予告で、長尾景虎が毘沙門天の前で
なにやら呪い?をかけているような映像が・・・・不義がどうのこうのと言っているような?
怪しい顔をして、誰に呪いをかけてんのよ?!明日の放送を見ないとわからないな(笑)

景虎の信玄討伐祈願文は、残っているけど、年代はもっと後のはずだし・・・
それにしても、不義という言葉(聞き間違いかもしれないけど)が気になる。
謙信は、晴信公が父親を追放したことを不義だと騒いでいたしな。
でも謙信だって、父親や兄さんと仲が悪かったじゃないの!
それに景虎の父親である長尾為景は、斎藤道三や松永弾正と並ぶ下克上の人じゃん

ということで、長尾為景についてのご紹介。(平山優著から要約)
長尾為景は、越後守護・上杉房能の補佐をするお役目の守護代です。
為景は、主君・房能に対し謀反をおこし、雨水越というところで殺してしまいます。
そして、新しい守護に上杉定実を据え、実権を掌握します。
為景に殺された房能の兄にあたる関東管領・上杉顕定はこれに対し、
為景討伐のため挙兵しようとしますが、これを押さえ込みます。
その後、為景は室町幕府に太刀や金品をおくり買収し、
定実の守護職相続と自分の地位を正式に認めさせたのです。

黙っちゃおられないのは、上杉顕定ですよね。彼の実家の越後上杉を奪い取った為景に
復讐せんとの強い決意をもち、長尾為景に与した一味への報復を開始。
しかし、長尾為景は上杉軍の越後侵攻を、謀略を駆使して乗り切った後
自分が擁立した上杉定実とも合戦を交え勝利します。
これだけに留まらず、関東管領・上杉顕定を長森原で殺害したのです。
為景は、こうして権威を獲得し、長尾家への権力集中を強めました。

殺された上杉顕定の孫が、河越合戦(夜戦)で北条に大敗した上杉憲政。
その憲政から関東管領職を譲られたのが、長尾為景の息子・謙信。

ややこしいですよね!!上杉家のことは、私なりに勉強しているつもりなんですが
相関関係を理解して、覚えるなんて無理・・・・トホホ

仇敵である長尾家の景虎(謙信)に上杉姓と管領職を譲らねばならないほど
上杉は新興勢力の北条氏に圧迫されていたのです。

謙信が生まれたのは、享禄三年(1530)。越後に起こる享禄・天文の乱の前夜。
内乱のなかで、幼い虎千代は育ちます。
彼が大義名分大好き人間になったのは、父親を反面教師としていたんじゃないかな?

あっ予告で言ってた「不義のやから」って
越後に内乱をおこした上条や宇佐美や大熊のことかも?
謙信ちゃ~ん、お父様の悲願!越後統一に向けて頑張るんだよ!
川中島で待ってるからね♪

ところで明日のドラマ、謙信は何歳の設定で登場するのかしらん( ̄ー ̄)ニヤリ




13:12  |  歴史  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2007.06/08(Fri)

武田二十四将略伝

20070608115944.jpg
野澤公次郎著 武田神社発行


山本勘助(介)は実在、架空といろいろ取り沙汰されている武将です。
武田関係の啓蒙書は、いろいろ読みあさりましたけど
軍師としての山本勘助は、架空の人物の疑いが濃厚(笑)。
しかし、山本勘助という人物は、実在したようです。
昭和44年に「市河文書」の断片が発見され
これに「山本管助」の名を見ることになったからです。
だからと言って、勘助が軍師であったということにはなりませんよね。
武田研究をなさっている先生方の多くは、奥歯にものがはさまっているような言い方で
やんわりと、勘助架空説を唱えています。
あまり、山本勘助に関しては触れたくないという感じかな。
私が読んだ本では、唯一小和田先生だけが、軍師であったとおっしゃっていますが・・・

そもそも、山本勘助は「甲陽軍鑑」で、有名になった武将です。
この書は、江戸時代に創作された軍記ものであって史料ではありません。要は読みもの。
武田びいきにとっては、とても面白い内容でした。

前置きが長くなりましたが、本題に入ります。
「武田二十四将略伝」も勘助は軍師というほど、重い身分ではなかったという論調です。

以下に要約します。

勘助戦死の記事は、「甲陽軍鑑」「名将言行録」「甲州安見記」などにあるが
武田史料として信頼度の高い「妙法寺記」「高白斎記」「王代記」では見ることができない。
「高白斎記」の原本にあたる高白斎日記を著した駒井政武は、信玄の近臣で
(ドラマにも登場してますよね♪)軍師勘助の戦死を知らないはずがない。
諸記録・史料を照合して見ると、不思議なことが少なくないのである。
二次、三次的資料としての勘助事績や伝承は山梨、愛知、長野に多く存在している。
(NHKがやたらと紹介しています)

勘助のことを記している書は、「武田三代軍記」にはじまり
「川中島五箇度合戦之次第」「北越軍記」「常山紀談」「武功雑記」など
いずれも江戸期中期に書かれたもので、しかも「甲陽軍鑑」が世に出た以後のものであり
おそらく甲州流軍学書と宣伝された「甲陽軍鑑」を参考とした軍談本の類でしかない。

かんじんの一次史料となる勘助宛の文書は、その写しさえ一通も伝えられておらず、
とくに勘助自身の発給文書も、いまだ未発見となっている。


どうなんでしょうね?たんに発見されていないだけなのか
文書を発給するほどの身分でなかったのか・・・

川中島合戦の様子も、先に挙げた軍談本の類にしか、詳細が描かれておらず
よくわからないことだらけなのです。史料は断片的なメモ程度のものしか残っていません。

著者の野澤公次郎氏が、おっしゃるには

勘助は遠い戦国の世のロマンであり、何もすべてを削ぎ取る必要はなく
薄いベールに包まれていてこそ「夢」であるのかも知れない。

まさに!!!




13:04  |  歴史  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2007.06/03(Sun)

河東の一乱

久々に大河ドラマの感想。毎回、欠かさず見ていたのですけどね。
しかし、ここのところ、由布姫が主役でしたので・・・・
ドラマとしては面白かったけど、武田びいきとしては、複雑な想いがあります。
だって、勝頼を生むかと思うと
それだけ、迫真の演技だったということです(笑)。

さてさて、今日は「第二次河東一乱」でしたね。嬉し涙を浮かべて見てました!!
いつも、三国同盟と騒ぎ立てておりますけど、この同盟の契機ともなった河東の一乱。
正式な同盟成立は、まだまだ後ですけれど。

もともと、北条と今川は、深い結びつきがありました。
北条、北条と言ってますが、正確には後北条。伊勢(北条)早雲が初代の新興大名です。
二代目の氏綱(氏康の父)のときに、伊勢から北条に改姓しました。

北条早雲の妹が、今川氏親(義元の父)の生母です。
早雲が今川の軍師的な役割を担うほど、両家は固く結びついていました。
その関係を悪化させたのが、信虎の時代に締結された、今川と武田の同盟だったのです。
そんで、今川と北条は、戦闘状態

晴信公、氏康、義元の登場に大感激です!!
特に義元公におかれましては、いつのまにやら、マロ帽子をご着用~そうこなくっちゃ!

来週はいよいよ、関東管領・上杉憲政と北条氏康の【河越合戦】だぁ~すっごく、楽しみ!
これに大敗北した上杉家は、急速に力を落とし、後に謙信を養子に迎えるのですよ。
長尾景虎の登場も近いですなっ!

そして今日は、小山田信有も出番が多かった。
信有は天正21年に死去します。残念ながら川中島合戦の前です(涙)。
小山田家は、都留郡の支配権が容認されていた唯一の分郡領主であり
武田の家老衆のなかでは、特異な存在でした。
ドラマでは、ちょっと納得いかない描かれ方・・・もっと優秀じゃわい!!!
すっ、すいません。興奮して乱暴な言葉使いになりました(*_ _)




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