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2007.07/08(Sun)

景虎が謙信と名乗るのはいつから?

私たちは、謙信と言えば上杉謙信と気安く呼んでいますが
いつからこの苗字と名前になったのでしょう?
有名な第四回川中島(永禄四年)の戦いは、「武田信玄」対「上杉謙信」の対戦と呼ばれています。
でも、このとき謙信の名前は政虎。永禄四年閏三月に上杉姓と上杉憲政から一字をもらって
長尾景虎から上杉政虎となりました。その後、上杉輝虎に改名します。
「永禄四年の川中島の戦い」は武田信玄と上杉政虎の間で繰り広げられた激戦というのが正しいと思うのですが・・・・
可笑しいのは、謙信の改名を、武田家と北条家は認めず
ず~っと「長尾景虎」「長尾輝虎」「長尾謙信」と呼ばわっています(爆)。

それでですねぇ、私が知りたいのは謙信といつから名乗るようになったかということです。
知りたくてしょうがないのですよ(笑)。上杉関係の書籍を調べても載っていません。
ならば武田書籍からと思い調べたけど、どの本にも書いていない
しょうがないので、「甲陽軍鑑」を読んでみると、ありました~
晴信公は天文二十年に出家し信玄公となられ
長尾景虎は天文二十一年、23歳の時に謙信と名乗られた・・・・・・・
しか~し!!晴信公が信玄公となられたのは、最近の研究では永禄二年とのこと。
「甲陽軍鑑」には年代の誤記が多いと聞きます。謙信の項目も信憑性がありません。

教えて~謙信はいつから謙信になったの?!


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15:56  |  歴史  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2007.07/08(Sun)

上田原の合戦

【合戦の年代と場所】
天文17年(1548)上田原(長野県上田市上田原地区)

【武田側の合戦動機】
小田井原の合戦で上杉氏の脅威を当面避けたことから、
残る村上氏の影響を排除することで、佐久の支配を安定化させる。

【村上義清の合戦動機】
支援できないまま、志賀城が陥落してしまったため、村上義清は面目をつぶされた。
佐久・小県郡の諸勢力との共闘を維持させることに危機感を抱き、武田氏との決戦を決意。

【合戦の詳細】妙法寺記訳から
武田軍と村上軍は、上田原古戦場の中心を流れる産川(千曲川支流)を挟んで対峙し
軍勢が入り乱れる合戦となった。
しかしこの合戦で武田軍は重臣板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門らが
戦死する大打撃を蒙り、大将晴信も負傷した。小山田信有が比類なき戦ぶりをみせた。

上田原の合戦の詳細な経過についての史料は「妙法寺記」の記述以外に存在していないそうです。
この戦で、板垣信方が油断して首をとられたという話は「甲陽軍鑑」の「信州上田原合戦之事」によるものでしょう。

武田軍敗戦は、諏訪上原城の留守居役として留まっていた駒井高白斎らのもとに報告されます。
負傷した晴信公が戦場に20日間余、留まっていることを心配した駒井政武は
大井夫人に連絡して、戦場を去るよう説得してもらったそうです(高白斎記)。
信玄公は負けたにもかかわらず、なぜ戦場に留まっていたのか・・・?
当時は、先に戦場を退いたほうが負けという通念であったそうです(笑)。

 

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12:30  |  歴史  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2007.07/07(Sat)

百姓から見た戦国大名

注文しておいた本が届きました♪
「雑兵たちの戦場」「戦国北条一族」「百姓から見た戦国大名」「真田昌幸」「川中島合戦再考」の計5冊。
まず、読んだのは、黒田基樹氏の「百姓から見た戦国大名」
この方の名前は、よく目にしていました。
武田関係の本の中で、黒田氏の論文を、参考文献として紹介している人が多いからです。
序文でおっしゃっていることが素晴らしい 目からうろこです!!

戦国大名を取り上げた書物の大半は、個別の大名を取り当げ、大名の生涯を追ったり
彼らが繰り広げる合戦などを扱ったもので、たいていは大名の視点から叙述されている。
・・・・(中略)・・・・戦国大名とはどのような存在で、
どのような歴史的な位置にあったと考えられるであろうか。
そのことを理解するためには、戦国時代における民衆の日常はどのようなもので
その日常のなかから、どのようにして戦国大名が生み出され、展開をみせていったのか
という考え方をしていくことが大切になる。

たしかに!私なんぞ、戦国時代とは何?と問われたら
「戦国大名が領土拡大のため戦にあけくれた」としか答えられない
戦国の社会システムを知ることが肝要ということですなっ
戦国時代をみる際には、何よりも人々の課題が、自らの生存そのものにあったということを
強く意識しておかなければいけないそうです。
この時代は、慢性的な飢餓状況を克服していくための、新しい社会の仕組みが
形成されていく時代であり、そのなかで、戦国大名が生み出されたということ。
大名の野望に、百姓が巻き込まれたというだけでもなさそう・・・・
まず、村と村との凄まじい戦争があって、それに領主が介入し、領主同士の戦争へ拡大してしまう。
その紛争を解決するため、大名権力が干渉するといったこともあったようです。

また、合戦は武士のものと思いがちですが、実態は民衆を巻き込んでいます。
戦場では耕地が破壊され、家屋は放火され、人と物の略奪が繰り広げられます。
乱捕りに夢中になり、勝敗の行方さえ知らない者もいたとか・・・・笑
討ち取った敵兵から、刀以下の武器・武具類を奪い、それを身にまとって良い格好になり
さらに馬や女性を略奪して、財産を増やし豊かになる。
しかもそれによって領国内は平穏が保たれていたそうです。

まだまだ、書きたいことがあるのですが、長くなりそうなのでやめておきます(笑)。
良書に出会えて満足


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14:28  |  歴史  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2007.07/04(Wed)

甲陽軍鑑にみる村上義清

「風林火山」では、そろそろ「上田原の合戦」ですねぇ。
永島敏行さんが演じる村上義清!なかなかグッドです♪
あんな感じの人だったのでは?と思える記述が「甲陽軍鑑」にあります。
志賀城が晴信公に攻め落とされたと聞いて、立腹する箇所です。
原文の方がニュアンスが伝わると思うので、そのまま抜粋しますね。

我等に内通の城、晴信公に破却され、此儘(このまま)ただゐるに付いては、
義清旗本に付く人、某に心をはなし可申(もうすべく)、
其上去年真田弾正に、武略をせられ、能武将あまた殺され、
傍々以口惜(かたたがもってくやし)き次第なれば、
行末は如何もあれ、今度晴仕らるゝを、幸にしてうちはたすへきとして、
其勢七千余、村上譜代旗本共に郭のかくのごとし。

アバウトに訳す?と、志賀城を晴信に取られたよ~口惜しい!
このままじゃ、皆に笑われる。武田のなかでも、真田が特に憎いよー
7千の兵を集めて仕返ししてやる・・・・・みたいなことをおっしゃってる
なら、相木の口車に乗らず、志賀城に援軍を送ればよかったのに(笑)

村上義清は、清和源氏の流れを汲む国人衆。
坂木に居館を構え、背後に詰めの城である葛尾城を持ち、その領域は埴科郡を中心に
水内郡、更級郡、高井郡に及ぶ大きな勢力を誇っていました。
信玄公にとっては強敵です。さてさて、どうなることやら・・・・・・


18:01  |  歴史  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2007.07/02(Mon)

小田井原の合戦・志賀城の合戦

昨日の「風林火山」で取り上げられた小田井原の合戦。
見てて???ナレーションや出演者のセリフを聞くと「おたいはら」と言っている
えっ、これって「おだいばら」じゃなかったんだ!
ず~と、「おだいばら」だと思っていました・・・・ガ~ン!
手持ちの文献を調べてみると、笹本先生や平山先生は「おたいはら」。
柴辻先生は「おだいばら」と呼んでいます。
「小田井原の合戦」は長野県北佐久郡御代田町小田井という所でありました。
地元の人は、なんと呼んでいるのでしょうかね?
とにもかくにも、地名の読み方は難しいなぁと感じた次第です(笑)。

「小田井原の合戦」と「志賀城攻略」については、「勝山記」に詳細が残っているらしいです。
坂本徳一氏(武田信玄のすべて・磯貝正義編)によると

志賀城攻略の際、城内で捕らえられた笠原夫人、女、子ども百人余りは
そのまま甲府へ護送されて、一人三貫から十貫文で売買された。
才媛の誉れ高い笠原夫人は、小山田信有が二十貫で買って
岩殿城(山梨県大月市)の駒橋に連れ去られ側室となった。
とあります。

二十貫は、今の貨幣価値だと何百万円というところかな?
(一貫いくらだったか忘れました・・・汗)
戦国時代は人身売買が普通に行われていたそうです。
現代人からすると、ギョッとする話ではありますけど・・・・


11:59  |  歴史  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑
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