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2007-07-25 Wed 21:09
ここ何日かの間、HP制作に励んでおりました。
根をつめすぎてバテ気味です。 歴史関係のことは、HPの方へ移行していこうと思っています。 最近わけのわからないブログになっていましたので ここいらで、カテゴリーごとに整理していこうかと・・・・ HPは超マニアックな歴史サイトになりそうです(笑)。 当分、ブログの更新は不定期になるかもしれませんけど 多忙だとか病気ということではありませんので、ご心配なく(笑) それにしても、やりだしたら止まらなくなる性格をなんとかしたいです。 |
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2007-07-22 Sun 20:10
「風林火山」で晴信公が詩ってらっしゃいましたね。「甲陽軍鑑」品第三十九の中の「信玄公逝去につき御遺言の事」という項目に出てきます。サラッと出てくるので、見逃しそうです。以下、抜粋しました。
信玄は、手柄をたてるのに、若いときから他国の大将をたよって出馬を願い、連合して戦ったことは一度もない。また包囲した城のかこみを解いて退いた事は一度もない。味方の城を一つとして敵に奪われたこともない。甲州国内には城郭をかまえて用心することもなく、館はただの屋敷がまえですませてきた。ある人が信玄公の御歌として言う。 人は城 人は石垣 人は掘り 情けは味方 あだは敵なり アハハ・・・・たったこれだけしか、書かれてないのですよ〜。「人は城 人は石垣・・・・・」のフレーズは、信玄公の歌として、「可笑記」という江戸初期の仮名草子にも出てきます。またまた、抜粋します(笑)。 国主の城郭とは、五倫五常を守ること、正しい法度を定め、軍法を厳しくして、武士道の邪正をただすこと、家老、近習衆、諸役人に、心正しい侍を見立ててすえること。領民に恩情をほどこし、喜ばれるように計らうことなど以外にない。 可笑記の原作者は「人は城 人は石垣 人は掘り」という歌に心を打たれたのでしょう。現代人の私も、大好きなフレーズです!!! |
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2007-07-18 Wed 11:25
柴辻俊六著「真田昌幸」を読みました。
真田昌幸は真田幸隆の三男。真田幸村(信繁)のお父上。 昌幸については、知っているようで、まったく知らなかった というのが正直な感想です。柴辻先生が、例によって細かい検証をされてるのですよー。 「先生〜この本は、あくまでも一般大衆むけに書かれたんでしょ。細かすぎる!」と 思いつつ、必死で内容を追っていきました。そうするうちに、激動の真田家の史実にふれ 涙ぐんでいる私。 この本を読んで泣くとは、私のオタク度も相当なものです(笑)。 ともすれば、真田一族は戦記的な面に興味をもたれ、講談や小説の内容が 通説として流布しています。特に真田幸村は、悲劇の武将として有名ですね。 この真田一族の礎を築いた真田幸隆の武田家への帰属は 天文15年あたりではないかとのこと。 「上田原の合戦」の背景には真田幸隆ほか、滋野氏一族の旧領回復の願望があったそうです。 ただ、幸隆が参戦していたことは「甲陽軍鑑」に板垣信方の脇備えであったとみえるに すぎないと柴辻先生はおしゃっています。 その後の幸隆の働きについては、「高白斎記」に書かれているそうです。 天文20年5月の幸隆の単独軍事行動による戸石城の攻略など・・・ 真田家や北条家の歴史は戦国絵巻です。 中でも真田昌幸は多くの有名な合戦に参戦しています。 初陣が第四回川中島と伝えられ、三増峠の戦い(対北条)・三方ヶ原の戦い(対徳川) 長篠の戦い・朝鮮の役(備前名護屋に赴く)・関ヶ原の戦い(上田城にて徳川秀忠と対戦) 真田幸隆、昌幸、幸村(信繁)。戦国の世で異彩を放った三代だと思います。 |
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2007-07-15 Sun 19:21
「風林火山」の感想。
今回の大河ドラマ、重厚感があり良い仕立てですね。 中井貴一さんが主役を務めた「武田信玄」の時は、史実と違う!と思って見ていました。 それ以降、大河ドラマに反発を感じて、アンチ大河となったのです。 (忠臣蔵関連のものを除きます・・・笑) しかし、今回は柴辻先生が時代考証をされていることもあって 主だった合戦は盛り込んでいるし、駒井政武に光をあてているのも渋い。 山本勘助が主役というのは、引っかかりますが、内野さんがあまりにもカッコいいので 許すとしましょう(笑)。 ただ、信玄公は「天と地と」で高橋幸治さんが演じた信玄が、今でも一番好き。 あれを見て(年くっててすみません)信玄びいきになったのですよ。 亀さんは、凄みがありすぎで・・・私としては、竹ノ内豊さんあたりに演じてほしかった。 ジョニー・デップでもいいのですがね(笑)。 さてさて、今回。甘利虎泰と板垣信方が死んじゃったよー。当然泣きました。 信玄公にとって「上田原の合戦」と「戸石崩れ」での負けは 最強軍団になるために払った大きな犠牲でしょうね。 家康にも言えることですけど、人間若いときに挫折を味わうことが大切なのだと感じます。 戦国武将の負けは命取りになりますけど・・・・・ |
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2007-07-11 Wed 23:49
その時歴史が動いたで「桶狭間の戦い」が取り上げられてましたね。
なんと、小和田哲男先生がコメンテーターとして出演されてた! 以前、このブログで本の感想こちらを書くほど、興味のあるテーマでした。 桶狭間合戦は、迂回・奇襲作戦などではないと最初に指摘したのは、藤本正行氏だと 鈴木眞哉氏が、おっしゃっております(戦国15大合戦の真相より) 藤本正行著「信長の戦争」を読むと、確かに桶狭間の戦いは奇襲攻撃ではなかったと 納得します。 私は「信長の戦争」の後、「信長公記」を読んだのですが、あの戦が奇襲であったとは、 一行たりとも書かれていません。 それにしても、藤本正行さんと鈴木眞哉さん。 このおふたりは、○○説に異を唱えることが、お好きなようです。 またまた言ってる〜と思いながらも、ついつい読んでしまいます ![]() 気づけば、本棚にふたりの本が計6冊ある(笑)。 特に面白かったのは、「信長は謀略で殺されたのか」です。そうだよな!って共感しました。 光秀くん、謀反の動機は何だったの? |
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2007-07-08 Sun 15:56
私たちは、謙信と言えば上杉謙信と気安く呼んでいますが
いつからこの苗字と名前になったのでしょう? 有名な第四回川中島(永禄四年)の戦いは、「武田信玄」対「上杉謙信」の対戦と呼ばれています。 でも、このとき謙信の名前は政虎。永禄四年閏三月に上杉姓と上杉憲政から一字をもらって 長尾景虎から上杉政虎となりました。その後、上杉輝虎に改名します。 「永禄四年の川中島の戦い」は武田信玄と上杉政虎の間で繰り広げられた激戦というのが正しいと思うのですが・・・・ 可笑しいのは、謙信の改名を、武田家と北条家は認めず ず〜っと「長尾景虎」「長尾輝虎」「長尾謙信」と呼ばわっています(爆)。 それでですねぇ、私が知りたいのは謙信といつから名乗るようになったかということです。 知りたくてしょうがないのですよ(笑)。上杉関係の書籍を調べても載っていません。 ならば武田書籍からと思い調べたけど、どの本にも書いていない ![]() しょうがないので、「甲陽軍鑑」を読んでみると、ありました〜 晴信公は天文二十年に出家し信玄公となられ 長尾景虎は天文二十一年、23歳の時に謙信と名乗られた・・・・・・・ しか〜し!!晴信公が信玄公となられたのは、最近の研究では永禄二年とのこと。 「甲陽軍鑑」には年代の誤記が多いと聞きます。謙信の項目も信憑性がありません。 教えて〜謙信はいつから謙信になったの?! |
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2007-07-08 Sun 12:30
【合戦の年代と場所】
天文17年(1548)上田原(長野県上田市上田原地区) 【武田側の合戦動機】 小田井原の合戦で上杉氏の脅威を当面避けたことから、 残る村上氏の影響を排除することで、佐久の支配を安定化させる。 【村上義清の合戦動機】 支援できないまま、志賀城が陥落してしまったため、村上義清は面目をつぶされた。 佐久・小県郡の諸勢力との共闘を維持させることに危機感を抱き、武田氏との決戦を決意。 【合戦の詳細】妙法寺記訳から 武田軍と村上軍は、上田原古戦場の中心を流れる産川(千曲川支流)を挟んで対峙し 軍勢が入り乱れる合戦となった。 しかしこの合戦で武田軍は重臣板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門らが 戦死する大打撃を蒙り、大将晴信も負傷した。小山田信有が比類なき戦ぶりをみせた。 上田原の合戦の詳細な経過についての史料は「妙法寺記」の記述以外に存在していないそうです。 この戦で、板垣信方が油断して首をとられたという話は「甲陽軍鑑」の「信州上田原合戦之事」によるものでしょう。 武田軍敗戦は、諏訪上原城の留守居役として留まっていた駒井高白斎らのもとに報告されます。 負傷した晴信公が戦場に20日間余、留まっていることを心配した駒井政武は 大井夫人に連絡して、戦場を去るよう説得してもらったそうです(高白斎記)。 信玄公は負けたにもかかわらず、なぜ戦場に留まっていたのか・・・? 当時は、先に戦場を退いたほうが負けという通念であったそうです(笑)。 |
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2007-07-07 Sat 14:28
注文しておいた本が届きました♪
「雑兵たちの戦場」「戦国北条一族」「百姓から見た戦国大名」「真田昌幸」「川中島合戦再考」の計5冊。 まず、読んだのは、黒田基樹氏の「百姓から見た戦国大名」 この方の名前は、よく目にしていました。 武田関係の本の中で、黒田氏の論文を、参考文献として紹介している人が多いからです。 序文でおっしゃっていることが素晴らしい 目からうろこです!!戦国大名を取り上げた書物の大半は、個別の大名を取り当げ、大名の生涯を追ったり 彼らが繰り広げる合戦などを扱ったもので、たいていは大名の視点から叙述されている。 ・・・・(中略)・・・・戦国大名とはどのような存在で、 どのような歴史的な位置にあったと考えられるであろうか。 そのことを理解するためには、戦国時代における民衆の日常はどのようなもので その日常のなかから、どのようにして戦国大名が生み出され、展開をみせていったのか という考え方をしていくことが大切になる。 たしかに!私なんぞ、戦国時代とは何?と問われたら 「戦国大名が領土拡大のため戦にあけくれた」としか答えられない ![]() 戦国の社会システムを知ることが肝要ということですなっ 戦国時代をみる際には、何よりも人々の課題が、自らの生存そのものにあったということを 強く意識しておかなければいけないそうです。 この時代は、慢性的な飢餓状況を克服していくための、新しい社会の仕組みが 形成されていく時代であり、そのなかで、戦国大名が生み出されたということ。 大名の野望に、百姓が巻き込まれたというだけでもなさそう・・・・ まず、村と村との凄まじい戦争があって、それに領主が介入し、領主同士の戦争へ拡大してしまう。 その紛争を解決するため、大名権力が干渉するといったこともあったようです。 また、合戦は武士のものと思いがちですが、実態は民衆を巻き込んでいます。 戦場では耕地が破壊され、家屋は放火され、人と物の略奪が繰り広げられます。 乱捕りに夢中になり、勝敗の行方さえ知らない者もいたとか・・・・笑 討ち取った敵兵から、刀以下の武器・武具類を奪い、それを身にまとって良い格好になり さらに馬や女性を略奪して、財産を増やし豊かになる。 しかもそれによって領国内は平穏が保たれていたそうです。 まだまだ、書きたいことがあるのですが、長くなりそうなのでやめておきます(笑)。 良書に出会えて満足 ![]() |
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2007-07-04 Wed 18:01
「風林火山」では、そろそろ「上田原の合戦」ですねぇ。
永島敏行さんが演じる村上義清!なかなかグッドです♪ あんな感じの人だったのでは?と思える記述が「甲陽軍鑑」にあります。 志賀城が晴信公に攻め落とされたと聞いて、立腹する箇所です。 原文の方がニュアンスが伝わると思うので、そのまま抜粋しますね。 我等に内通の城、晴信公に破却され、此儘(このまま)ただゐるに付いては、 義清旗本に付く人、某に心をはなし可申(もうすべく)、 其上去年真田弾正に、武略をせられ、能武将あまた殺され、 傍々以口惜(かたたがもってくやし)き次第なれば、 行末は如何もあれ、今度晴仕らるゝを、幸にしてうちはたすへきとして、 其勢七千余、村上譜代旗本共に郭のかくのごとし。 アバウトに訳す?と、志賀城を晴信に取られたよ〜口惜しい! このままじゃ、皆に笑われる。武田のなかでも、真田が特に憎いよー 7千の兵を集めて仕返ししてやる・・・・・みたいなことをおっしゃってる ![]() なら、相木の口車に乗らず、志賀城に援軍を送ればよかったのに(笑) 村上義清は、清和源氏の流れを汲む国人衆。 坂木に居館を構え、背後に詰めの城である葛尾城を持ち、その領域は埴科郡を中心に 水内郡、更級郡、高井郡に及ぶ大きな勢力を誇っていました。 信玄公にとっては強敵です。さてさて、どうなることやら・・・・・・ |
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2007-07-02 Mon 11:59
昨日の「風林火山」で取り上げられた小田井原の合戦。
見てて???ナレーションや出演者のセリフを聞くと「おたいはら」と言っている ![]() えっ、これって「おだいばら」じゃなかったんだ! ず〜と、「おだいばら」だと思っていました・・・・ガ〜ン! 手持ちの文献を調べてみると、笹本先生や平山先生は「おたいはら」。 柴辻先生は「おだいばら」と呼んでいます。 「小田井原の合戦」は長野県北佐久郡御代田町小田井という所でありました。 地元の人は、なんと呼んでいるのでしょうかね? とにもかくにも、地名の読み方は難しいなぁと感じた次第です(笑)。 「小田井原の合戦」と「志賀城攻略」については、「勝山記」に詳細が残っているらしいです。 坂本徳一氏(武田信玄のすべて・磯貝正義編)によると 志賀城攻略の際、城内で捕らえられた笠原夫人、女、子ども百人余りは そのまま甲府へ護送されて、一人三貫から十貫文で売買された。 才媛の誉れ高い笠原夫人は、小山田信有が二十貫で買って 岩殿城(山梨県大月市)の駒橋に連れ去られ側室となった。 とあります。 二十貫は、今の貨幣価値だと何百万円というところかな? (一貫いくらだったか忘れました・・・汗) 戦国時代は人身売買が普通に行われていたそうです。 現代人からすると、ギョッとする話ではありますけど・・・・ |
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| 嗤う生活 |
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というのが正直な感想です。
目からうろこです!!