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2009.08/22(Sat)

日本海軍 400時間の証言 第一回開戦 ”海軍あって国家なし”

毎年、終戦の日近くになると、戦争をテーマにしたドキュメンタリーや映画、ドラマが放送されますね。今年は戦争体験者の証言に基づく番組が多かったように思います。ドキュメンタリーは『重爆撃機』『人間魚雷』『レイテ決戦』『よみがえる第二次世界大戦』『盧溝橋事件』『東京裁判』、そして『日本海軍 400時間の証言』を見ました。どれも見応えがあるものでした。特に『海軍反省会』の”海軍あって国家なし”は非常に内容がある番組でしたので、備忘録として内容を書き留めておくことにしました。

もやがかかったような画面に浮かびあがる一枚の集合写真。そこには高松宮と9人の参謀が写っている。「太平洋戦争 開戦」のテロップ。軍艦マーチが流れる中、一隻の戦艦から砲弾が放たれた・・・・。

【ナレーション】
海軍は開戦時、戦艦10隻、空母10隻を要し世界3位の規模を誇りました。明治以来、近代化を推し進めた日本の象徴でした。昭和16年12月8日のハワイ真珠湾奇襲。日本は太平洋アジアへの勢力拡大を図り、アメリカにいどみました。この戦争で中心的な役割を果たしたのが海軍でした。その結果、失われた多くの命。日本人およそ300万人、アジア各国ではさらに多くの人が犠牲になったと言われています。この戦争は誰が何のために始めたのか・・・・戦後、当事者の多くは沈黙を守り、詳しい経緯が明かされることはありませんでした。去年、元海軍将校の遺品の中から、大量のカセットテープが見つかりました。「海軍反省会」の記録。開戦時、海軍の中枢にいた人々は戦後密かに集まり、誰にも語っていなかった記憶を打ち明けていたのです。反省会には天皇直属の戦争指導機関「軍令部」の参謀たちが数多く参加していました。太平洋戦争の作戦を立案した「海軍の頭脳」とも言える人々。彼らは戦争の大義を十分に問うこともなく、勝算もないまま開戦へと突き進んでいきました。

軍令部作戦課 佐藤元大佐の証言
「本当に国力その他 検討して対米戦を勝てるのか勝てないのか 真剣に検討しなかった」

軍令部作戦課 三代元大佐の証言
「軍備拡張のために ずいぶん予算を使った 戦えないとは一切言わない」 

元中佐の証言
「明治末期から大正 昭和に進むに従い 思いあがりおごりが高じ 身の程を知らぬ暴走をやり ついに日本を破滅に追いこんだ」

ここで、再び参謀たちの写真がアップになり、続いて現代から過去へとさかのぼるショットで戦時にたどりつきます。ひとりひとりの戦争がありました。写真の主たちは参謀たちの思いなど知る由もありません。

反省会は昭和55年から平成3年まで、月に一度のペースで130回以上行われました。参加者はのべ40人。戦争の真実を語り残しておこうと始まったそうです。

番組ディレクターの説明「失われた多くの命、遺族の深い悲しみに思いを至らす時、二度と戦争を起こさないことが私たち戦後世代の責務だと思います。しかし、日本では政府や軍の命令によって公文書が燃やされてしまったために、なぜ戦争が始まったのか、そのプロセスを知ることが難しくなってしまいました。今回、私たちはかつて海軍の中枢部にいて国策の決定に携わった人たちが残した肉声の記録を入手しました。時間にして400時間、海軍反省会の議論を録音したものです。」

当時の海軍の組織図です。このうち一番実権を握っていたのが軍令部でした。

NHK_1.jpg


さらに軍令部(天皇が持つ、軍隊を指揮する権利 統帥権を補佐する機関)は総長をトップに4つの部から成り70人ほどの参謀が所属していました。軍令部は天皇直属という権威を背景に、政府や海軍省に対し、強力な発言権を持っていました。そして太平洋戦争直前、陸軍の参謀本部とともに政府に強く開戦を主張したのです。

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【開戦に至った内実】の告白

軍令部作戦課 佐薙毅元大佐の証言
「本当にやれるのかどうか 徹底的に突きとめて ある程度のリスクを冒すのは当然ですけれども 作戦を検討されずにですね どんどん勢いに流されていった」

この背景には石油が日に日に減っていくことに対するあせりがあったのです。昭和16年7月日本はインドシナ南部に軍を進駐させました。すでに中国と戦争していた日本はさらなる勢力の拡大に乗り出したのです。これに対しアメリカは、日本軍は中国から撤退すべきだと主張し、日本への石油輸出を禁止しました。

軍令部はアメリカとの戦争準備を進めますが、海軍省はアメリカと戦争することに慎重でした。
海軍省兵備局長 保科善四郎元中将の証言
「私が兵備局長をやらされて調べてみるとね とても出兵準備なんていうのは まるで夢みたいなもんなんだ 軍務局長に この戦備では戦ができませんと何回も口が酸っぱくなるほど言ったんだが・・・」

多くの将校はアメリカとの戦争に不安を抱きながらも、早期の開戦を主張する軍令部に引きずられていきました。

ここで番組は核心に触れます。軍令部が開戦を決断したのは何故なのか・・・・。
軍令部の永野修身総長は、真珠湾攻撃の4カ月前、昭和天皇に開戦を進言しています。軍令部作戦課三代一就元大佐は、永野修身総長から、その真意を打ち明けられました。
「海軍が戦争できないと反対したら 右翼や陸軍がですね これに対して内乱を起こすと言うんですよ」

当時陸軍は中国との戦争で数十万人に上る死傷者を出しており、今さら撤退できないと主張。東條英機陸軍大臣は撤退すれば陸軍はガタガタになり統制が利かなくなると警告していました。三代一就他元大佐は
「内乱を起こすと人数上海軍はかなわんから 陸軍に負けて 結局そういう連中の右翼の内閣ができて 時期を失して 日本としては不利な時期に戦争をやらなきゃならぬ どうせ戦争をやらなきゃならぬというなら 少しでも勝ち目のある間にやるべきだというのが水野総長の考えだった」と証言します。

永野総長は内乱、クーデターによって海軍が陸軍の支配下に置かれる事態を恐れていました。開戦を決断したのは海軍という組織を陸軍から守るためでもあったのです。

太平洋戦争の大義『自存自衛 アジアの解放』とは関係のない動機で戦争は始まりました。これを聞いて、戦中、軍令部が立てた作戦を実行するために南太平洋で戦った元少佐は憤ります。
「相当な者が日本の自存自衛のために 日本の独立を守っていくためには 戦争をせざるをえないんだと 戦争に走ったと思うんですよ」「何の計画も勝算もなしに 名義のない強盗侵略戦争をやったということが事実なんですか それを我々認めるわけですか」
・・・・・「負けると思った方は 内乱を恐れてやったと」

戦争は避けられたはずだと、元中将は主張します。
「軍令部は内乱が起こると言うが 内乱が起こったって 海軍が反対すれば戦争にはならない あれだけの人を殺して戦争をするよりも 若干譲歩をしてね・・・そういうことが足らなかったことを反省していいと思うんだ」

反省会の開始から3年半、戦争中、最前線で戦ったきた野元為輝元少将が議論の口火を切りました。 軍令部での勤務経験はなく、空母の艦長として南太平洋で戦った人物です。誰も触れようとしなかった軍令部と皇族の関係に言及しました。
「永野 嶋田両大将のことを批判するだけでは はなはだ批判の範囲が狭い 博恭王が9年間も軍令部総長をやっている ああいうのはどうも妙な人事である 殿下がひと言いわれると ハイだ」殿下とは伏見宮博恭王元帥。日露戦争にも従軍した海軍の英雄でした。総長を在任した9年間に海軍は急速に軍備を拡張しました。野元為輝元少将は続けます。「皇族に対する考えに もう少し ブレーキをかける空気がなかったのを遺憾に思う」軍令部は兵力量の決定を統帥権に取り込むことで軍備拡大を推し進めようとしたのです。

軍令部の暴走が始まりました。昭和9年、伏見宮総長は軍縮体制からの脱退を天皇に進言。それ以降、アメリカやイギリスとの軍縮交渉は更新されませんでした。軍縮の足かせがなくなった海軍は戦艦大和の建造など、軍備拡大を急速に進めていきます。軍令部の意向に国家が引きずられた結果、アメリカ・イギリスとの対立は極めて深刻に。やがて軍令部は国民ひとりひとりの命を顧みなくなっていきます。

平成になると、反省会は海軍の第一委員会を検証しています。
鳥巣建之助元中佐の証言
「現情勢下において帝国海軍の執るべき態度という文章を作り 燃料はなんとかなります 船もなんとかなります 要するに戦争にむちゃくちゃにもっていくような作文だったんだ」第一委員会は軍令部と海軍省から選りすぐられた中佐・大佐が集められていました。メンバーは軍令部作戦課 富岡大佐 軍令部 大野大佐 海軍省 高田大佐 海軍省 石川大佐ら7人。第一委員会のメンバーは組織のルールを無視して次々に決済を得ていきます。「一部の人は陸軍と通謀して政治をもてあそぶことに快感を感じていた」と証言するのは伏見宮総長副官だった末国正雄元大佐。

第一委員会高田利種元少将の証言
「海軍部内で戦争に賛成したか 反対したか こういうことも忘れました 日米戦争をやれば絶対に勝つと思っている人があったかなかったか 私にはわかりません しかし世界の大勢だったと思うんです 満州事変で大きな石が坂を転がり下りた」
高田利種元少将は戦後、あるインタビューで、戦争への準備を迫った当時の思惑を聞かれ「それはね デリケートなんでね 予算獲得の問題がある それが国策で決まると大蔵省なんか どんどん金くれるんだから それが国策として決まれば 臨時軍事費がドーンと取れる 好きな準備がどんどんできる 海軍の心理状態は非常にデリケートでね 日米交渉を妥結したい 戦争しないで片づけたい しかし、戦争しないと海軍は意気地がないとかなんとか言われるし・・・・」

アメリカとの対立をあおり、軍事予算をできるだけ獲得、その後にアメリカと妥結する・・・・それが狙いでした。開戦の年、海軍は前年の倍以上の軍事費を獲得しました。しかし、それは国民の命を危険にさらすことと引き換えだったのです。

海軍が先端を開いたアメリカとの戦争は、自らあおりたてた対立が予想を超えてエスカレートした結果でした。しかし、軍令部作戦課は長期的な作戦を、ほとんど考えていなかったと反省会で告白しています。「海軍の軍令部には長期的な計画を冷静に研究するスタッフがいなかった」

ほころびは開戦の半年後に始まりました。ミッドウェー沖の海戦で、海軍は空母4隻、熟練のパイロットなど3000人を失います。日本は敗戦への坂を転がり落ちるきっかけとなりました。ミッドウェー作戦を立案したのは連合軍艦隊でした。山本五十六司令長官は日本海軍が優勢のうちに、アメリカ海軍に決定的な打撃を加えようともくろんだのです。軍令部はこの作戦を危険と判断しながらも、連合艦隊を説得できる別の作戦を提示できませんでした。真珠湾作戦を成功させた山本にやらせてみようということになったのです。兵士の命を預かる立場にありながら、軍令部は無責任な決断を下していたとしか言いようがありません。

ミッドウェー作戦に参加した潜水艦部隊の元参謀が声をあげました。準備期間を十分 設けないまま作戦を強行し3000人の犠牲者を出した責任を問うたのです。
「とにかく航空艦隊も 潜水艦も ミッドウェー作戦を延ばしてくれと あれほど言ったのにですね その辺はどうなんですか」
それに対し元軍令部は「そいつはもうわかっておったんでね 半月ぐらいは延ばさなきゃいかんだろうということだったんだけど・・・・」軍令部はミッドウェー作戦の失敗を国民に伝えませんでした。

「あなた戦争に勝つと思ってたんですか」と問われた佐薙毅元大佐は「そこはわからないですね 勝つつもりでやっているわけです 開戦は不可避という状況だったんですね」

それぞれの仕事に埋没し国民ひとりひとりの命が見えなくなっていった将校たち。その姿勢は海軍あって国家なしと言わざるをえません。そうした内向きの姿勢は戦後になっても続き、反省会の元将校たちは、その記録を公開しませんでした。しかし、彼らを一方的に非難することにためらいを感じます。縦割りのセクショナリズム、問題を隠蔽する体質、ムードに流され意見を言えない空気。責任の曖昧さ、元将校たちが告白した戦争に至るプロセスは今の社会が抱える問題そのものであるからです・・・という言葉で番組は締めくくられています。
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テーマ : NHK - ジャンル : テレビ・ラジオ

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2009.08/10(Mon)

秋山真之

司馬さんの『坂の上の雲』を読むまで、私は秋山真之という軍人を知らなかった。日露戦争では連合艦隊作戦主任参謀となり、日本海海戦においてバルチック艦隊を7段構えの作戦により撃破し、海戦史上何ものもなしとげなかった完全勝利の立役者である。また「天気晴朗ナレドモ波高シ」の電文や「連合艦隊解散の辞」は秋山が起案したもので、最後の一文、古人日ク勝テ兜ノ緒ヲ締メヨト(昔のことわざにも教えている「勝って、かぶとの緒を締めよ」と)が有名。名文家でもあった。

新人物往来社から刊行されている『秋山真之のすべて』を読んだ。新人物往来社の「○○のすべて」シリーズは、歴史上の人物を複数の人が執筆するというスタイルをとっている。戦国時代の武将のものは何冊か読んだが、幕末・明治時代の人は初めて。明治ともなれば、一次史料も現存するであろうから、雲をつかむ話ではなさそう、期待が膨らむ。

akiyama.jpg

各章と執筆者は ①秋山真之ー人と風土・・・田中歳男 ②秋山と明治海軍・・・野村実 ③海軍兵学校から日露戦争終結まで・・・志摩亥吉郎 ④秋山兵術の秘密を探る・・・篠原宏 ⑤その後の秋山真之・・・田中宏巳 ⑥秋山真之エピソード妙・・・生出寿 ⑦資料(官歴 秋山の意見書 秋山の著作と伝記)

この中で特に面白かったのは『秋山真之エピソード妙』。
名戦術家秋山にはいくつもの奇癖があった。その一つが立ち小便。桜の木の根もとに、海軍少佐の軍装のまま、じゃあじゃあとひっかけていた。アメリカに留学していたころは特にひどかったらしい。知り合いの米造船技師の家のベルを押した秋山は、急に思いついたように植え込みのあるところへゆき、小便をひっかけはじめた。それを終えると、出迎えた婦人になにくわぬ顔で「ハロー、ハウ・アー・ユー」と言って、いま小便をしたその手で、知らぬがホトケの夫人としっかり握手をした。大きな音を立ててオナラをする変なクセもあった。以下、本からの抜粋(私の表現ではありませんからねっ)飯田久恒少佐の話として・・・日本海海戦時、秋山先任参謀はことさら力を入れて、勢いよく、屁をぶっぱなす。ぶっぱなしておいて「あ、屁か」と屁でもないようにいう。飯田はあきれて「この人は頭がいいから名参謀だが、ふつうだったら変人だ」と思った・・・

食べることにかけては野猿みたいなところがあった。年から年中、上衣のポケットに、えんどう豆かそら豆の煎ったのをいっぱい入れていて、時も所もかまわず、ぽりぽりかじっているのを、周りは類人猿でも飼っているつもりで我慢していたそうだ。衣装、身なりも、およそ文明人とちがっていた。みすぼらしい木綿の風呂敷をぶらさげて歩く姿は、古着屋の丁稚のようであった。艦に乗れば、甲板上どこにでも、猿みたいにひょいと腰かけるので、いつもズボンが汚れて薄汚ない。そんな風であるからエチケットもおかまいなしだった。司令長官と幕僚たちとの食事の席では、食べ終えると、その場で靴下を脱ぎ、足をあげて水虫をゴリゴリかきだす。秋山は野原を歩きまわる原始人のようだった(笑)。秋山のことを俳人の河東碧梧桐は「全エネルギーを職務にうちこんで、そのほかはすべて省略してしまった男」と言っている。

秋に放映される『坂の上の雲』では本木雅弘さんが秋山を演じる。おそらく不潔な秋山ではなく、清潔でさっそうとした秋山真之になってしまうんだろうな。

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