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2012.03/30(Fri)

秋刀魚の味

白い煙を吐き出す5本の煙突が並んでいる。カメラは煙突の一部を工場の窓からも映す。事務所らしき部屋には平山周平(笠智衆)の姿がある。穏やかで優しそうな人だ。会社に訪ねてきた友人の河合(中村伸郎 )が、周平の娘の縁談を持ちかけた。だが「縁談か・・・まだ子供だよ」と、気にもとめず、河合を飲みにさそう。「ダメだ、ナイターだよ、大洋・阪神戦を見にきたんだ」この台詞で、周平の勤務先が川崎であるとわかる。

画面が川崎球場に変わる。お~、懐かしい。私は若い頃、野球が好きだった。(近鉄の西本監督のファン)川崎球場には、近鉄・ロッテ戦を観に何度か足を運んだ。そうだ、そうだ、大洋のホームグラウンドは川崎球場だった!河合が球場で観ているであろう試合の中継が、小料理屋のテレビで流れている。『麦秋』の時にも、同じような演出があった。歌舞伎の舞台とそれを中継するラジオをリンクさせていたっけ。奥の座敷に、あれっ、河合がいる!!「おっ、入ったかな」と試合経過を気にする河合を無視し(笑)、周平と堀江(北龍二)は自分たちの恩師のことを話している。河合は周平の誘いを断りきれなかったのだ。「ダメだ、ナイターだよ」の後の、周平と河合のやりとりは描かれていないが、想像すると可笑しい。これぞ小津マジック。

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三人は恩師をクラス会に招く相談をしている。恩師の佐久間(東野英治郎)は、電車の中で新聞を拾うような生活をしているらしい。話は続き、若い後妻をもらった堀江のことになる。ひやかす周平と河合は『秋日和』の三馬鹿同様、邪気がない。

家に帰った周平を娘路子が出迎える。『晩春』『麦秋』で取り上げられた娘の結婚が本作でも軸をなす。娘を演じるのは岩下志麻さん。「お茶漬け召し上がる?」と聞く顔に笑みはない。ぶっきらぼうな印象を受ける。家政婦が親戚の不幸で明日からこれないことを父に告げ、父と弟・和夫(三上真一郎)に「私が出かけたあとは、きれいにかたずけておいて」と命じている。小津作品は同じテーマが多いが、タッチは作品ごとに違う。本作は『晩春』のエレクトラ・コンプレックス的なものが排除されており、路子は父に冷たく接している(ように見える)。

周平には、路子と和夫の他に、家を離れて団地で、妻・秋子(岡田茉莉子)と暮らしている家長男・幸一(佐田啓二)がいる。結婚して団地で暮らす・・・時代の流れだろうか、それとも親子関係の断絶を表しているのか。。。

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路子は周平の友人河合の会社に勤めている。家では見せない笑顔を浮かべて、河合と接しているのが面白い。ビジネス・スマイルなのね~。河合は、先だって自分が周平に勧めた縁談のことを口にするが、路子は父から何も聞かせれていなかった。そこで、改めて路子に結婚する気があるかどうか訊ねると「私がいくと、家が困ります」と微笑んだ。さして父親思いとも感じられなかった路子だが、本当はどんな娘なのか、気になるところである。

その夜、恩師の佐久間を囲んでのクラス会が開かれた。この場面での東野英治郎さんの、笑いと切なさを、ほどよく混ぜ合わせた演技が素晴らしい。周平らが卒業して40年。漢文を教えていた佐久間は、年老い、かつての威厳は微塵もない。「鱧」(はも)を食べ、「これは何ですか?」と聞く。「ハモですよ」「ハモ?、なるほど結構なもんですな。魚へんに豊か」鱧という字は知っていても、食べたことがないのだ。娘のことを聞かれると、その表情が暗くなり「私は早く家内を亡くしまして、娘はまだ、一人でおるんですわ。」と寂しそうに応えた。老人の哀れがヒシヒシと伝わってくる名シーンだ。佐久間が帰った後、出席者のひとりがつぶやく。「萎びたひょうたんかぁ、でも、いい功徳だったよ」彼らは恩師への憐れみの情を隠そうとはしなかった。

酔った佐久間を周平と河合が送ることになった。車が止まったのは場末の横丁。佐久間はここで、娘とふたりでラーメン屋を営んでいる。姿を現した娘(杉村春子)は、周平たちに礼を述べた後、眉をひそめ「いつも父はこうなんです。」と軽蔑の眼差しを父に向ける。婚期を逃した娘の姿を目の当たりにし、周平の気持ちは変化する。佐久間親子の姿に、自分の将来を重ね合わせたのだろう。『晩春』や『麦秋』に登場した娘は、父親思いの優しい子であったが、本作の路子はキツイ娘として描かれている。ということは、佐久間の娘のようにギスギスして冷たい女になりかねないのだ。杉村春子と岩下志麻の演技の二重性がそれを示す。演出の妙ですなぁ。。。

本作にも小津流お笑いが顔を出す。周平と河合がなじみの小料理屋で飲んでいるシーンが傑作。女将(高橋とよ)に「おビールお持ちしましょうか?」と聞かれ「まぁ、いいよこれからお勤めだからね」「今日は堀江先生はご一緒じゃなかたんですか?ほんとに可愛いお若い奥さまで」「あー、可愛いね、可哀想なことしちゃったよねー。」「どうかなさったんですか」「夕べは堀江のお通夜だよ。今日は友引なんでね、明日が告別式なんだよ」「ほんとですか?」「今も弔いの打ち合わせなんだ、花輪はご辞退しようか」ふたりとも神妙な顔をしている。え~っ、びっくり!!!ふたりとも淡々としていて不人情だなぁ。死因は若い女房が祟ったと言っている。ところが、そこへ死んだはずの堀江がやってきた。長い冗談に、こちらも付き合わされた(笑)。

後日、周平は佐久間を訪ね、同級生から集めた金を渡そうとする。固辞する佐久間だったが、客がきたため、周平はテーブルに金を置き、店の外に出ようとした、その時「艦長!」という声が・・・。声の主は彼は周平が駆逐艦に乗っていたときの部下・坂本(加東大介)だった。坂本は周平を誘い、バーに行き、酒を飲みながら語り合う。「ねぇ、艦長、どうして日本は負けたんですかね?」酒がすすみ、軍艦マーチに合わせて、かつての艦長と部下は敬礼し合う。戦争が、はるか昔の出来事になったことを小津流に、ひねったシーンだ。

本作は、路子の結婚よりも、周平の過ぎ去った日々への追想に力点がおかれているように感じた。本作が小津監督の遺作となったことで、そういう印象を受けるのだろうか。小津監督の眼差しは、人間のはかなく移ろいゆく時間に向けられている。

周平は路子に結婚を勧めるが、彼女は乗り気でない。「あたしがいったら、困りゃしない?まだ、いいわよ」と言う。ほんとの所は、好きな人がいて父の話に同意しないのだ。しかし、路子が思いを寄せる相手は既に結婚が決まっていた。そのことを路子に伝えると、一旦は視線を落としたものの、直ぐに顔をあげ「いいのよ、そんならいいの」と明るく答えた。ドライな娘だと父と兄は安堵する。そこへ弟が「ねぇさんが泣いている」と告げに来た。

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画面は結婚式に出かける準備で忙しい平山家を映す。路子は、その後、見合いをし結婚が決まったのだ。花嫁姿の路子が「お父さん・・・」と挨拶しようとするのを「あぁ、分かっている、分かっている、しっかりおやり」と遮った。無人の部屋が家族の離別を物語る。

本作には小津作品お決まりの写真撮影シーンがない。結婚式を終えた周平は河合家で堀江とともに談笑している。小津監督は、この映画が最後になるとは思っていなかったはずだが、今まで小津作品を飾った印象深い台詞が周平の口から溢れ出る。「俺はな、堀江、近頃のお前が不潔にみえる」「やっぱり、若いもんは若いもんだけの方がいい」「やっぱり、子供は男の子ですなぁ、女の子はつまらん」そして、話題が恩師佐久間のことに及ぶと、急にさびしそうな顔をみせた。河合の家を後にした周平は、軍艦マーチのバーに寄る。「お葬式ですか?」と聞かれ「まぁ、そんなもんだよ」と、寂しそうにうなづく。結婚も葬式も別れの儀式にかわりない。家に帰り、軍艦マーチを口ずさむ周平は、一気に老けたように見えた。路子がいなくなった部屋、姿見の鏡は誰も映してはいない。時は老人を置き去りに進むとでも言いたげな、わびしさが漂うラストである。
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09:03  |  映画  |  TB(1)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2012.03/26(Mon)

無法松の一生(オリジナル版)

先日BSで放送された1958年版『無法松の一生』に続き、オリジナル版を観た。ほぼ、同じカット割り、台詞、演出だが、作られた時代と役者が違う。オリジナル版は太平洋戦争まっただ中の1943年に公開された。内務省の検閲が入り、重要な箇所が削られた状態での上映だった。松五郎が未亡人(園井恵子)へ愛を告白するシーンがばっさりカットされている。当時の感覚からすれば、車夫が帝国軍人将校の妻を慕うなどいうことは許されるはずがない。しかし、松五郎の恋は、検閲をすり抜け観客の心に響く。阪東妻三郎の艶やかな表情は、言葉に出して語らずとも、未亡人への思慕が、痛々しいほど滲み出たものとなっている。

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バンツマの愛称で呼ばれた大スターをリアルタイムで知らない世代にとって、彼は伝説の役者であり、その演技に接する機会を私は持たなかった。時代劇での華麗な立ち回りで名を馳せた二枚目は、刀を捨て、細かな心情を車輪に託して時代を走りぬけていく。

未亡人と、その息子への献身は、夫人の夫・吉岡大尉が亡くなった時から始まる。松五郎の実直さは息子の成長に大きな影響を与えた。少年はすくすくと育ち、松五郎を大いに喜ばせる。意地の悪い継母に育てられた松五郎にとって、夫人の優しさは、松五郎が初めて接した母性の温もりだったのではなかろうか。

敏夫は中学を卒業し、親元を離れ高校へ進む。夏休みに帰ってきた敏夫の成長した姿を見て喜ぶが、同時に寂しさも感じる松五郎であった。今まで「ぼんぼん」を逞しい男にすることを生きがいにしてきた松五郎は、自分の役割が終わったことを実感し、自分の老いを認めざるを得なかった。人生のフィナーレを高らかに締めくくるように、松五郎の祇園太鼓の音が響く。そして無法松と呼ばれた男は死ぬ。

オリジナルでカットされた部分は阪東妻三郎の豊かな演技によって余韻となり、作品に情感を生んだ。不幸中の幸いだったかもしれない。言わぬが花ということもある。阪東妻三郎の松五郎は、演技をしているという感じがしない。役と役者の間に隙間がないのだ。バンツマは明治生まれで、その気質を内包していたからかもしれない。味のある、風格漂う演技でもって観客を魅了している。

三船さんの松五郎からは男気・律儀さ・快活さを、バンツマの松五郎からはロマンスを感じた。愛のシーンを削除したものの方が愛を感じさせるのだから不思議である。余白が想像力を高めたのだろう。もっとも、本作が公開されたのは、忠義という主題に人々が感動しやすかった時代であるから、当時の人は松五郎の無私無欲の奉仕物語として観たかもしれないが・・・。

カメラの動き、カッティングの呼吸などによって生じる映像の流れと抑揚が、本作に絵画的な美しさをもたらしたことも書き加えておきたい。松五郎が祇園太鼓をたたくのを、回りながら追っていくカットは迫力満点だ。そして、ラスト、過去を回想する幻想的なシーンは、松五郎の心情を描きつつ、死を暗示し見事である。リメイク版はオリジナルのカメラワークをほぼ踏襲しているのだが、最後の一番目立つ箇所でネガを反転させ、画面から美しさを奪ってしまった。もし、宮川さんがリメイク版でも撮影を担当したならば、どのような映像になっただろう?オリジナル版から15年。撮影技術の進歩をどう反映したか知りたいところである。

リメイク版はオリジナル版を再現したものだが、明治の気質までは再現できなかったように思う。これは、どうしようもないことで、三船さんの演技が劣っているということでは決してない。世界のミフネも明治のバンツマには及ばなかったということか・・・。

19:45  |  映画  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2012.03/19(Mon)

やっちゃった(;_;)/~~~

ぎっくり腰をやってしまいました。

今からワンコを、トリミングに、連れて行かなければいけないのに。。。

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(携帯から)
12:20  |  一般  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2012.03/18(Sun)

黒部の太陽

BSで観た。再見だと思う。記憶があやふやなのだ。小学生ぐらいの時に観たと記憶しているのだが、わざわざ劇場へ観に行ったとは考えづらい。調べるとソフト化されていないし、TVでは1979年に「秋の特別ロードショー」で短縮版が放送されたのみとある。これのTVドラマ版は見ていた(と思う)。私は三船敏郎さんが主演する映画も観たと思っているのだが・・・。
ウィキペディアには、文部省の推薦映画に選ばれ、当時、小学生だった人の中にはこの映画を小学校の校外学習で見たという人も多く見られる。という記述がある。私はそれで観たのかな・・・。

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さて映画。黒部渓谷から太陽が昇ろうとしている。雄大なテーマ音楽が、これから始まるドラマの壮大さを観客に印象づける。雪をたたえた山々は、白く厳しくそびえ立ち、人を寄せ付けない威厳に満ちている。引きのカメラが、ちっぽけな登山者の一行を捉えた。一歩ずつ、足場を確かめながら、上を目指している。昭和31年6月。関西電力の北川(三船敏郎)たちはダム建設のための下見に来ていた。 建設資材を富山から谷底に運ぶトンネルを掘り、日本で一番、世界で四番めの巨大ダムを建設するという。火力が主になりつつある電力を柔軟性のある水力発電でカバーし需要を安定させるためである。

現場責任者の北川、熊谷組の下請け会社の岩岡(石原裕次郎)らの、厳しい挑戦が始まった。当初は順調に掘り進んでいたトンネル工事だが、破砕帯に遭遇したことにより、工事は困難を極める。濁流が作業員を飲みこんでいき、犠牲者も出た。現場の緊迫がひしひしと伝わってくる。冷静な北川でさえ、我を忘れ声を荒げる。皆、気が立っているのだ。さまざまな人々の思惑が交差する暗闇のトンネル。極限状態の心理描写は見どころの一つと言えよう。

俳優たちの迫真の演技も素晴らしい・・・と、言いたいところだが、石原裕次郎さんがねぇ・・・・。台詞の語尾が聞き取り辛い。『狂った果実』は録音技術のこともあってか、台詞が全く聞き取れなかった。年月を経て作られた本作では、途中まではわかるのだが、最後の部分が「モワ~」としていてはっきりしない。歌声はステキなのにネ。残念。太陽族を知らない世代にとって、石原裕次郎さんは『太陽にほえろ』や『西部警察』の人であり、映画俳優というイメージに欠ける。

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最後、トンネルが開通するシーンは圧巻である。画面を埋め尽くす人、人、人。皆、笑っている。それぞれの立場の人が、それぞれの思いを込めて、突き進んだ道のりは厳しかった。ようやく通した一本の道に、風が通り抜けてゆく。みんなの心が一つになった瞬間だ。敗戦から立ちあがった日本の姿を映画に見て、誇らしい気持ちになった。が、一方で、原子力発電所という安易なモノを作ってしまったことへの反省を促されているようにも感じた。
14:03  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2012.03/16(Fri)

雨月物語

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タイトル画面のバックに流れる笛、鼓、太鼓、三味線の音が、本作のトーンを予告する。高貴で妖艶でミステリアス、そして怖い。舞台は琵琶湖畔。秀吉と勝家の戦ということは「賤ヶ岳の戦い」だろうから、時は天正十一年(1583)。戦国時代の戦は、権力争いの他に「乱捕り」と呼ばれる雑兵たちによる略奪が、大きな戦争目的だった。本作で描かれている「乱捕り」の悲劇にも目を向けなければいけない。

琵琶湖のショットに続き、貧しい村の風景が現れる。陶工・源十郎(森雅之)は長浜へ焼き物を売りに行こうとしていた。妻宮木(中絹代)は夫の身を案じつつ見送る。そこへ、隣に住む妹・阿浜(水戸光子)の亭主・藤兵衛(小沢栄太郎)が家から飛び出してきた。戦乱に乗じて侍になるため、自分も長浜まで行くと言っている。阿浜は夢みたいなことを考えるなと反対するが、それを振りきり出かけてしまう。源十朗は金儲けのため、藤兵衛は立身出世のため、険しい道を突き進む。行きつく先の恐ろしさも知らずに・・・。今も昔も戦乱は経済を動かす。おそらく、長浜は人と物が行き交い、活況を呈していたに違いない。ふたりは長浜に夢をみたのだ。

本作は神秘に包まれ、この世とあの世の境界線を不確かなものにしている。琵琶湖のシーンは、とりわけ美しい。霧が立ち込める画面、かすかに聞こえてくる唄、画面の奥から、おぼろげながら舟が姿を現す。唄声が次第に大きくなり、舟は手前にやってきた。水面の光は月明かりか、それとも霧に遮られた太陽光か。湖水の静寂を、光でも表現する徹底ぶりだ。

長浜での商いの成功に味をしめた源十郎は焼き物作りに精を出す。始めは苦労をかけてきた女房と子供に贅沢をさせたい一心だった。みやげの小袖を羽織った宮木は「これを買って下さるあなたの心が嬉しい。あなたさえ居てくれれば私は何もほしくない」と喜ぶ。だが、源十郎には宮木の心がわかっていない。万事金、お金こそ幸せの源だと思い始める。源十郎に生じた変化は邪な心を生む。悪霊はそんな人間を見逃しはしない。若狭(京マチ子)と名乗る美しい死霊が源十郎に憑いた。

源十郎は若狭とその乳母の案内で、琵琶湖にほど近い朽木屋敷を訪ねる。朽ちた木戸、土壁に映る源十郎シルエットは腰が引け、不安そうである。品物を届け帰ろうとする源十郎を、乳母は強引に屋敷へあげてしまう。この時の乳母の立居振舞は能の仕舞のようだ。そして、美しい若狭の顔は能面の冷たさをたたえている。源十郎が恐る恐る屋敷の中へ進むと、気配は一転し、整った庭と座敷が姿を現した。あの朽ちた木戸は魔性の世界の入口なのだろう。

朽木屋敷のセットは能の舞台をイメージして作られたそうだ。妖艶な姫君の舞いが、この世への未練を紡ぐ。この人も戦乱の犠牲者なのだ。戦国時代は酷い時代だった。民百姓は飢えて死ぬ者が多かったと聞く。死を免れるには、藤兵衛のように戦闘に加わり手柄を立てるか、村を襲って物資を強奪するしかなかった。村人を捕まえて人身売買することすらあった。女性は乱暴され、娼婦に身を落とした。阿浜のように・・・。

goo映画によると、上田秋成の「雨月物語」九話のうち「蛇性の婬」「浅茅が宿」の二つを採って自由にアレンジした川口松太郎の小説(オール読物)を原型として、川口松太郎、依田義賢が共同脚色した・・・とある。上田秋成の「雨月物語」は読んだことがないので、本作がどのようにアレンジされたのかわからないが、溝口監督は戦乱の世というシチュエーションに重きを置いたのではないだろうか。戦乱の世の夫婦物語だからこそ、その愛が浮き上がり、観る者の心に沁みる。

宮木と若狭・・・宮木は優しく、しとやかな女であり母であり妻である。一方、若狭は美しく激しい女だが、この世では男性との縁がなかった。彼女の妖艶さは願望が生んだ「まやかし」なのだ。夫と子供の守護霊になった宮木と悪霊として男に憑いた若狭。溝口監督は日本固有の霊に着目し、二種類の女を描いてみせた。
09:55  |  映画  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑
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