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2007.07/08(Sun)

上田原の合戦

【合戦の年代と場所】
天文17年(1548)上田原(長野県上田市上田原地区)

【武田側の合戦動機】
小田井原の合戦で上杉氏の脅威を当面避けたことから、
残る村上氏の影響を排除することで、佐久の支配を安定化させる。

【村上義清の合戦動機】
支援できないまま、志賀城が陥落してしまったため、村上義清は面目をつぶされた。
佐久・小県郡の諸勢力との共闘を維持させることに危機感を抱き、武田氏との決戦を決意。

【合戦の詳細】妙法寺記訳から
武田軍と村上軍は、上田原古戦場の中心を流れる産川(千曲川支流)を挟んで対峙し
軍勢が入り乱れる合戦となった。
しかしこの合戦で武田軍は重臣板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門らが
戦死する大打撃を蒙り、大将晴信も負傷した。小山田信有が比類なき戦ぶりをみせた。

上田原の合戦の詳細な経過についての史料は「妙法寺記」の記述以外に存在していないそうです。
この戦で、板垣信方が油断して首をとられたという話は「甲陽軍鑑」の「信州上田原合戦之事」によるものでしょう。

武田軍敗戦は、諏訪上原城の留守居役として留まっていた駒井高白斎らのもとに報告されます。
負傷した晴信公が戦場に20日間余、留まっていることを心配した駒井政武は
大井夫人に連絡して、戦場を去るよう説得してもらったそうです(高白斎記)。
信玄公は負けたにもかかわらず、なぜ戦場に留まっていたのか・・・?
当時は、先に戦場を退いたほうが負けという通念であったそうです(笑)。

 

テーマ : 歴史・時代小説 - ジャンル : 本・雑誌

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