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2007.06/08(Fri)

武田二十四将略伝

20070608115944.jpg
野澤公次郎著 武田神社発行


山本勘助(介)は実在、架空といろいろ取り沙汰されている武将です。
武田関係の啓蒙書は、いろいろ読みあさりましたけど
軍師としての山本勘助は、架空の人物の疑いが濃厚(笑)。
しかし、山本勘助という人物は、実在したようです。
昭和44年に「市河文書」の断片が発見され
これに「山本管助」の名を見ることになったからです。
だからと言って、勘助が軍師であったということにはなりませんよね。
武田研究をなさっている先生方の多くは、奥歯にものがはさまっているような言い方で
やんわりと、勘助架空説を唱えています。
あまり、山本勘助に関しては触れたくないという感じかな。
私が読んだ本では、唯一小和田先生だけが、軍師であったとおっしゃっていますが・・・

そもそも、山本勘助は「甲陽軍鑑」で、有名になった武将です。
この書は、江戸時代に創作された軍記ものであって史料ではありません。要は読みもの。
武田びいきにとっては、とても面白い内容でした。

前置きが長くなりましたが、本題に入ります。
「武田二十四将略伝」も勘助は軍師というほど、重い身分ではなかったという論調です。

以下に要約します。

勘助戦死の記事は、「甲陽軍鑑」「名将言行録」「甲州安見記」などにあるが
武田史料として信頼度の高い「妙法寺記」「高白斎記」「王代記」では見ることができない。
「高白斎記」の原本にあたる高白斎日記を著した駒井政武は、信玄の近臣で
(ドラマにも登場してますよね♪)軍師勘助の戦死を知らないはずがない。
諸記録・史料を照合して見ると、不思議なことが少なくないのである。
二次、三次的資料としての勘助事績や伝承は山梨、愛知、長野に多く存在している。
(NHKがやたらと紹介しています)

勘助のことを記している書は、「武田三代軍記」にはじまり
「川中島五箇度合戦之次第」「北越軍記」「常山紀談」「武功雑記」など
いずれも江戸期中期に書かれたもので、しかも「甲陽軍鑑」が世に出た以後のものであり
おそらく甲州流軍学書と宣伝された「甲陽軍鑑」を参考とした軍談本の類でしかない。

かんじんの一次史料となる勘助宛の文書は、その写しさえ一通も伝えられておらず、
とくに勘助自身の発給文書も、いまだ未発見となっている。


どうなんでしょうね?たんに発見されていないだけなのか
文書を発給するほどの身分でなかったのか・・・

川中島合戦の様子も、先に挙げた軍談本の類にしか、詳細が描かれておらず
よくわからないことだらけなのです。史料は断片的なメモ程度のものしか残っていません。

著者の野澤公次郎氏が、おっしゃるには

勘助は遠い戦国の世のロマンであり、何もすべてを削ぎ取る必要はなく
薄いベールに包まれていてこそ「夢」であるのかも知れない。

まさに!!!




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