2008.01/08(Tue)
天と地と(海音寺潮五郎)

先日、テレビ朝日系列で「天と地と」が放送されました。松岡くんの上杉謙信、自然な演技で良かったと思います。原作は海音寺潮五郎さんの長編歴史小説「天と地と」。過去に大河ドラマや映画の原作に選ばれました。大河ドラマ「天と地と」の時に、時代考証を担当したのが桑田忠親さんです。このふたりの対談が「戦国乱世」という一冊の本になっています。発行は昭和58年ですが、対談は昭和44年に行われたものです。作家と歴史学者の戦国談義です。
このおふたりさん、なかなか毒舌家のようで、名だたる武将をメッタ斬り。ほどんどの武将のことををキライだ!と言い放っています(汗)。信長さんに関する記述は熾烈を極め、「織田の軍勢は弱かったんですよ。弱いからけっきょく鉄砲を使うんですよ。尾張や美濃の兵が弱いのは、気候温暖で耕地広く、生産が豊かで、商業経済なぞも発達していたから。要するに環境がよすぎたのです。そういうところで育った兵は、どうしたって弱いですよ」などど、科学的な根拠のなさそうなことを挙げています(笑)。
信玄公のことは「戦争は強かったけれど、やっぱり親父(信虎)の子供ですよ。好むところに溺れる性質があった人ですよ。彼はあれほどの実力を持ちながら、ほんとに年をとるまで、五十何歳になるまで都に上ろうというりょうけんを起こさなかった。これは、ぼくは怠け者だったからだと思うんだ」って、ひど~い(笑)。
愚将についても言及しています。今川義元の息子の今川氏真については「あれはだらしがありませんね。」さらには、「阿呆ほど長生きするんだな。今川氏真にしても山名豊国にしても、土岐頼芸にしても、たいへんな長生きですよ。阿呆ほど、のんきにできているんだな。苦にならないんだ。自分の失敗が」
毒舌ぶりはとどまるところを知らず、容姿については、北条早雲の顔が気味悪いだの、斎藤道三の肖像画をみた司馬遼太郎から聞いた話として「すごい顔だそうだ」といった具合です・・・やれやれ。
ところが謙信のことについては絶賛しています。「謙信の生涯はいってみれば芸術みたいなものですよ。彼の生涯そのものが、美しく潔く生きようという気持ちで貫かれて、従ってそんなおれは不犯を通して、最も清らかに美しく生きてやろう、という武将」だそうですよ。容姿については「立派で男振りがみごとですよ」戦い方は「フェアで敵を正々堂々とやっつける正義観念を持っていた」などなど・・・・
「天と地と」には、海音寺潮五郎さんの謙信への愛がいっぱい詰まっているのです。
スタンリー | 2008.01.08(火) 22:43 | URL | コメント編集
そうそう、そうなんですよ!見てきたかのように断定的な物言いをしているのです。
おふたりとも明治のお生まれなのですよー。ちょっと前まで江戸時代ですからね。
爽快で豪快なのですよ。毒舌ぶりは細木数子やサッチーの比ではありません。
歴史は人名と地名の読みが難しいですよね。
氏真(うじざね)頼芸(よりなり)なんて、今の読み方じゃないですものね。
最近の男の子の名前も、当て字が多くて読めませんが・・・。
>キャシュカードに残は無い
たんすには、現金ならびに大判・小判をざっくりと隠しているのでしょ(笑)
おふたりとも明治のお生まれなのですよー。ちょっと前まで江戸時代ですからね。
爽快で豪快なのですよ。毒舌ぶりは細木数子やサッチーの比ではありません。
歴史は人名と地名の読みが難しいですよね。
氏真(うじざね)頼芸(よりなり)なんて、今の読み方じゃないですものね。
最近の男の子の名前も、当て字が多くて読めませんが・・・。
>キャシュカードに残は無い
たんすには、現金ならびに大判・小判をざっくりと隠しているのでしょ(笑)
海音寺潮五郎の「天と地と」は、週刊朝日に連載された時に読みました。確かに謙信に贔屓した書き方だったと思います。
ところで、謙信が信玄に塩を送った話しは有名ですが、真偽のほどはどうだったのですか?。
秀吉や家康なども、作家によって書き方が違うのは、なかなか興味があります。
ところで、謙信が信玄に塩を送った話しは有名ですが、真偽のほどはどうだったのですか?。
秀吉や家康なども、作家によって書き方が違うのは、なかなか興味があります。
私は昔、文庫本で読みました。読み返そうと本棚を捜したのですけれど、
どこへいったのか、見つかりません(汗)。
「敵に塩を送る」という逸話は有名ですね。この話は、いろいろな解釈が出来るそうです。北条と今川が共謀して甲斐への塩止めをしたことは「上杉年譜」という史料などによって、永禄10年の8月のことと確認できます(史料によっては11年)。そこで信玄公は信濃に塩をもとめました。越後の塩の販売市場は信濃や甲斐だから、武田の領国へ輸送されるのは当然だという解釈があります。謙信の義侠心から越後の塩を甲斐へ送ったという証拠はないそうです。
敵将信玄とその領民の苦しみを救うための謙信の寛容と解釈すれば美談になります。逆に今川、北条も謙信の敵だったので、かれらの塩留に協力せず、越後の塩を売りまくって巨利を得たのだと解釈すれば、あえなく美談はついえてしまいますね。
作家さんによって書き方は違いますよね。新田次郎さんは大の武田贔屓で「武田信玄」は信玄公を神格化していますものね。
どこへいったのか、見つかりません(汗)。
「敵に塩を送る」という逸話は有名ですね。この話は、いろいろな解釈が出来るそうです。北条と今川が共謀して甲斐への塩止めをしたことは「上杉年譜」という史料などによって、永禄10年の8月のことと確認できます(史料によっては11年)。そこで信玄公は信濃に塩をもとめました。越後の塩の販売市場は信濃や甲斐だから、武田の領国へ輸送されるのは当然だという解釈があります。謙信の義侠心から越後の塩を甲斐へ送ったという証拠はないそうです。
敵将信玄とその領民の苦しみを救うための謙信の寛容と解釈すれば美談になります。逆に今川、北条も謙信の敵だったので、かれらの塩留に協力せず、越後の塩を売りまくって巨利を得たのだと解釈すれば、あえなく美談はついえてしまいますね。
作家さんによって書き方は違いますよね。新田次郎さんは大の武田贔屓で「武田信玄」は信玄公を神格化していますものね。
「戦国乱世」は昔読みましたが、アレは面白かったですね。
この戦国時代の世から宮本武蔵、柳生一族そして
徳川三代までが私の日本史(笑)ですので。。
特に最近、謙信はけなしづらい風潮がありますね。
いろんな方が“我こそは謙信の生まれ変わり”という
ほど信奉者も多いですものね。
そりゃホントにガクトや松岡クンみたいな顔だったなら男も惚れるでしょう笑
この戦国時代の世から宮本武蔵、柳生一族そして
徳川三代までが私の日本史(笑)ですので。。
特に最近、謙信はけなしづらい風潮がありますね。
いろんな方が“我こそは謙信の生まれ変わり”という
ほど信奉者も多いですものね。
そりゃホントにガクトや松岡クンみたいな顔だったなら男も惚れるでしょう笑
お読みになりましたか?!それは嬉しいです。
この手の本を読むお仲間が、こんな身近にいるなんて~(笑)。
ぱんだうさぎさんにも、マニアの血が・・・・・タハハ
私の日本史は北条早雲から徳川家康までの約100年です(短~い・・笑)。
ちょっと頑張って、家光までですかねぇ。ですから、今年の大河の背景がわかりません。私にとって島津家は島津義弘なのですよ。斉彬じゃない。
>“我こそは謙信の生まれ変わり”
そんなことを言うヤカラには、おだまり!と言いたいです(笑)。
謙信の画像を見ると、ひげ面でガクトさんや松岡クンとは違う系統のお顔だと思いますが。男色家だったという噂がありますね・・・・イ~ヒヒヒッ
この手の本を読むお仲間が、こんな身近にいるなんて~(笑)。
ぱんだうさぎさんにも、マニアの血が・・・・・タハハ
私の日本史は北条早雲から徳川家康までの約100年です(短~い・・笑)。
ちょっと頑張って、家光までですかねぇ。ですから、今年の大河の背景がわかりません。私にとって島津家は島津義弘なのですよ。斉彬じゃない。
>“我こそは謙信の生まれ変わり”
そんなことを言うヤカラには、おだまり!と言いたいです(笑)。
謙信の画像を見ると、ひげ面でガクトさんや松岡クンとは違う系統のお顔だと思いますが。男色家だったという噂がありますね・・・・イ~ヒヒヒッ
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ああ、でも私、武将の名前すら知りません。
漢字の名前が難しくで覚えられません。
これではアキマヘンですな。
マンガ版日本史を読んでも直ぐ忘れます。
「私に明日はない。キャシュカードに残は無い。」